昨日は3月11日。くしくも5年前と同じ金曜日。
だからというわけではないけれど、地元の江古田倶楽部での自分のライブがあり、いつも通りのライブ、そのかけがえのなさをかみしめながら歌いました。
江古田倶楽部のマスターも体調が万全でなく、ご本人の気力、意思のちから、常連のお客さんたちのサポートでお店が続いている状態のようで、今回のライブもギリギリまで、もしかしたら中止になるかも、という中の開催でした。
ギターの萩原信義さんも遊びに来てくれて、良いライブができたのではと思います。
ご来場の皆様、関係者各位、本当にありがとうございました。
出会った人たちがこうしてここで歌を介して一緒に一つの時間をつくっている。
それが、どんなにちっぽけでも、どれ程かけがえの無いことなのか。
私たちは、いつも今現在の中にしか居られない。
過去の事は、どんなに強烈な思い出でも、少しづつ色褪せて、少しづつ変形して風化していく。
5年前のあの日、私たちはどれ程思い知らされたのだろうか。
地震に胸ぐらつかまれて揺さぶられ、地べたに叩きつけられるような思いをしたんじゃなかったのか。
自然の中の自分たちの小ささ、無力さを知り、また、人間社会の中の権力というものの性質を知ったんじゃないのか。
目を覚ませ。
日々刻々を自分のものとしてつかみ続けるんだ。
誰かのせいにせず、自分の事として、自分がまず変わる。
わたしたちは「大衆」だ。望む望まずにかかわらず。
「大衆」には頭がない。
だけど、生物の細胞の一つ一つが生きようとし活動てることを思えば、間違えることはないはず。
私は生きたい。いきいきと、老いや死もふくめて自分の生を味わい尽くしていたい。
他者と触れ合って心が通う瞬間、生き物の幸福。命を次々に託し続けること。たぶんLOVE。
それを脅かすものははっきりと拒否する。
それだけなんじゃないのか。
誰の手にも負えないゆえに、誰一人責任を取るものがいない構造。
無理があるのはわかりきってる。
もう、大きくなろうとしなくていい。
それを認められればいいんじゃないのか。
地球はひとつしかなくて、でも世界はひとつではない。
それで、何がいけないの?
とりとめの無い思いばかりが去来する。
だけど、危機感は持っても悲観ばかりすることは無い。
少なくとも私は震災で意識が変わった。
知らずにいたことを知った。誰かに任せっきりにしてたことを自分の事だととらえることができた。
だからもっとわかろうとしている。
こどもと話している。
私は自分の親とそういう話をしたことは無かった。
きっとウチだけじゃないはず。
だから、そのぶんだけ良くなってる。
そんな風に、ひととつながって、託していきたい。
大衆には頭が無い。
だからこそ、伝えあい感じ合う直接のつながりに意味がある。
とりとめは無いけれど、方向は見えている。
今にしか居られない私たちだけれど、過去と断絶していない、ずっとつながった地平にいる。
終わっていない。震災後の世界はまだ始まったばかりだ。
揺り戻しもあるだろう。
時間はどれだけかかるのかはわからない。
確かに言えるのは、今、得したままで逃げ切ろうとしてる人たちもいずれ確実に死ぬ。
100年もたてば殆どの人が入れ替わっている。
その時には、きっと新しい世の中になっているはず。
(思いっきり道を踏み外して人類が滅んじゃったりしてなければ。)
それまでの道のりを、当事者として少しでもマシなものにしたい。
個人のささやかな幸せは、常に自分で確保しないと、あっというまに壊れるものらしい。
そして、見知らぬ誰かの犠牲の上の幸せは居心地が悪い。つまり、幸せじゃない。
揶揄するのはたやすい。ちがう。理想をかかげるんだ。
お花畑だって、維持するのはものすごく手間ひまかかるんだよ。
春は始まりの季節。暗闇や悲しみを抱いたまんまでも進むんだ。
次回の青木マリduo+ライブは4/16福島県郡山、利蒜堂。
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